目には見えないけれど確かな気配が、まとう人の個性を物語るフレグランス。豊かに経験を重ねることで、若い頃には似合わなかった香りも似合うようになり、自分らしさを表現する楽しみは、ますます広がっています。だから今、マイ・フレグランスのワードローブを更新しませんか?さあ、人生を華やかに彩るフレグランスの世界にご案内しましょう。
人生を彩る香りを求めて
シグニチャー・フレグランスとパートナー・フレグランス
What’s MASTERPIECE SCENT
「香りの出版社」というコンセプトの香水ブランドを立ち上げたフレデリック・マルによれば、香水とは、人と人との関係を近づけるための磁石である。
3年程前にマルが来日したときの午餐会で、彼はそのように語った。香水を官能的な欲望を育てる誘惑装置と捉えるならば、自分を物語る「シグニチャー・フレグランス」をもつことも大切、と。
シグニチャー・フレグランスとは、その人の象徴となる香水のことである。エレベーターの残り香でその人が乗っていたことがわかるというような、アイデンティティと強く結びつく香りである。
船の帆に丁子の香りをつけ、風に運ばせる香りによって帰港の間もないことを知らせたクレオパトラの時代から、「美人」はシグニチャー・フレグランスと共に語られてきた。眠るときに何を着るかと聞かれて「N5」と答えたマリリン・モンローは、香りが神話化の決め手になっている。あまりに良い香りなので私以外の人に売るのは禁止ね、とジバンシイにお茶目にくぎを刺したというオードリー・ヘップバーンは「ランテルディ(禁止)」のイメージと不可分である。人の印象として最も強く長く残るのは、なんといっても香り、及び香りを伴う振る舞いなのである。それが雰囲気も含めたその人の「匂い」となって、時空を超えて、人と人とを近づける。
では、人の象徴となる程重要なフレグランスがどのように選ばれるのかといえば、マルによれば、その人の過去と現在、そして迎えたい未来の理想から導かれる。面白いことに、パリのマルの店では、自分に最適の香水を選んでもらいたいと望む顧客が、過去や現在の自分の秘密をすべて彼に話してしまうのだという。あたかも神父に秘密を告解するように。
その結果、いち香水店の店主がパリ界隈の秘められた人間関係を最もよく知る人となっているらしい。人々はそれほど熱心に「私を表す香水」を探し求めているということか。いやむしろ、香水探しを通して、「私は何者で、これからどうありたいのか?」という本質的な問いに向き合っているのかもしれない。香水ボトルが並ぶカウンターは、その人自身が自分の生き方を考えるためのコンサルテーションの場になっているのではと想像する。
究極のシグニチャー・フレグランスをとことん探すという方法が一方にあるとすれば、それをあえてもたない、探さない、というやり方もある。私には後者の方が合っている。香水ならなんでもいいのかというとそうでもなくて、やはり共に生きる時間をより濃密に感じさせてくれる香水は必須で、私はこれをパートナー・フレグランスと呼んでいる。
なぜ香水と共にある時間を濃密に感じるのかといえば、好きな香りをつけていると、呼吸が深くなるのである。呼吸が深くなるがゆえに一層、香りは記憶と強く結びつく、だからこそ、時と共に自身が変化(成長であれば良いが)すると、それまでの香水が、<<過去の自分>>の記憶と結びついて、もうパートナーとして一緒に過ごせなくなってしまうのだ。季節が変われば、次の新しいパートナー・フレグランスと共に冒険に踏み出したくなる。不思議なもので、そうなると文字どおりのカンパニー(仲間)も変わる。香水は人と人とを近づける磁石として働く、というマルの言葉を改めて思い出す。
現代では、上質で魅力的な香りの新製品が毎週のように登場する。ひとつを選び切るのは至難の業である。いっそ覚悟を決め、偶然に出合い、直感的に良いと感じた香水を、シーズンのカンパニー・フレグランスとする、という付き合い方をする方が私にはストレスが少ない。その香水と共に過ごすシーズンを深く呼吸し、味わい尽くすことで、その香りは、結果として、そのシーズンの記憶とは切り離せない、人生を彩る香りになっている。
一種類を自身のシグニチャーとして貫くのは王道で、そんな態度をリスペクトしたい。一方、ステージによってカンパニーを変えながら<<過去>>を振り返らずワクワクし続けていきたい、という本音からは逃げられない。そういう香水との付き合い方も、もしかしたら、「どう生きたいのか」という人生に対する姿勢を無意識に反映しているのだろう。香水は、自分と自分の心との関係をより近づけるための磁石でもある。
中野香織
服飾史家・作家。ラグジュアリー領域を中心に、著述・講演・コンサルティングを行っている。経産省「ファッション未来研究会」委員。著書に『新・ラグジュアリー 文化が生み出す経済 10の講義』(安西洋之氏との共著、クロスメディア・パブリッシング)、『「イノベーター」で読むアパレル全史』(日本実業出版社)など多数。